2008年ごろ、このブログで百人一首の記事を書いていた時期、
77番目の崇徳院(崇徳天皇)の和歌をとりあげたのですが、
いまになって、違うアプローチをしようかと思います。


落語に「崇徳院」という一席がありまして。
高津さん(高津宮)で、偶然出会った若旦那さんと
歳は十七、八の、水のたれるような娘のお話。


高津さんへ参詣した際、茶店で出会った二人。

お互い通じるものがあったが、本意なく別れるのが惜しいと、
娘が料紙に、崇徳院の「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の」と、
上の句だけ書いたものを若旦那に渡した、というものです。

それがどうしたと思うのですが、その和歌の下の句が、
「われても末に あはむとぞ思ふ」です。

文法や縁語とかは上のリンク先の記事に詳しく書いています。
上の句だけ書いてよこして、下の句がなぜないのか。
つまり、「いまここで別れたとしても、いつぞお会いできますよう」。


それからというもの、若旦那は恋の病(気煩い)に倒れ、
天井を眺めても、熊五郎(この落語の主役)の顔も、
仕舞いにはその娘の顔に見えるほど。


親の主人は、熊五郎にその娘を探してくるように告げる。
熊五郎は若旦那から「どこの誰だかわからない」といわれている。
手がかりは、この上の句の「瀬をはやみ~」だけ。

主人(旦那)は、日本人に違いないから大阪で探せ。
大阪がダメなら京、尾張へと道は通じているのだから、
どこでも探せるやろ。見つかった暁にはきっちり礼をする、と。

熊五郎が家に帰ると、嬶にその話をする。
日本人なら、大阪がダメなら神戸、岡山・広島と道は続いてる、と
主人と同じことを言われて、探し出すというもの。


安心して下さい。最後にはきちんとサゲ(オチ)があります。
米朝師匠の「崇徳院」、お聞きください。



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さて、コイウタシリーズもラストスパートです。
最も数の大きい97番もコイウタです。

 

建保六年内裏歌合、恋歌

来ぬ人を  まつほの浦の  夕なぎに
   焼くや藻塩の  身もこがれつつ

          ――権中納言定家(藤原定家) 「新勅撰和歌集」

 

<直訳>
建保6(1218)年の内裏での歌合せのテーマ「恋の歌」において

逢う約束をしたのに待てども来てはくれない人を待つ私は、
あの松帆の浦の夕なぎの時に焼いている藻塩のように、
恋焦がれ恋い慕っているのですよ。

 

<文法など>

「松帆(まつほ)」
今の兵庫県淡路市岩屋(34°36′32"N、135°0′10"E)にある、
松帆崎のこと。淡路島の最北端で明石と対峙する。
”待つ”との掛詞にもなっている。

「凪(なぎ)」
朝と夕方、陸上(熱しやすく冷めやすい)と
海水面(熱されにくく冷めにくい)の温度差がなくなって
対流が起こらず風が止んでいる状態のこと。

「焼くや藻塩(もしほ)の」
品詞分解すると、「焼く - や - もしほ - の」。
”や”は間投助詞で語調を整える役割、
”の”は格助詞で「~のように」の意味。
藻塩は、海藻から採る塩のこと。
古い製法で、海藻に海水をかけて干し乾いたところで焼き、
それを水に溶かして、さらに煮詰めて塩を精製する。

「まつほの~もしほの」は「こがれ」にかかる序詞。

「焼く」、「藻塩」、「焦がる」は縁語。

このコイウタシリーズも残すところ、あと3首になりました。

本日取り上げる第92番歌、
次回の第97番歌、そして最後は第43番歌であります。

 

寄石恋といへる心を

わが袖は  潮干に見えぬ  沖の石の
    人こそ知らね  乾くまもなし

                ――二条院讃岐 「千載和歌集」

 

<直訳>

石に寄する恋の心情を読んだ詩

あなた様はきっと知らないのでしょうね。
潮が引いたときにも顔を出さない、沖にある岩のように、
私の袖が、悲しみの涙で濡れて乾く間もないことを。

<文法など>

「石に寄する恋」という題で詠んだ「題詠」の歌。
自分の心情を事物にたとえる手法であり、
「寄物陳思(物に寄せて思いを陳ぶる=述べる)」と言う。

「潮干に見えぬ沖の石の」は、「乾くまもなし」にかかる序詞。
ちなみに「見えぬ」の「ぬ」は、打消の助動詞「ず」の連体形。

「人こそ知らね」(係り結び)
 =「こそ」は係助詞、「ね」は打消の助動詞「ず」の已然形。
 ⇒人(相手、思いを寄せる人)は気付かないけれど

 

とりあえず、小倉百人一首のコイウタを完了させようと思います。
前回89番歌でしたのでその続きからですね。

 

歌合し侍ける時、恋歌とてよめる

見せばやな 雄島の海人(蜑・あま)の 袖だにも
 濡れにぞ濡れし 色はかはらず

      ――殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ) 「千載和歌集」

 

<直訳>
歌の読み合わせをしていましたとき、
「恋歌」というテーマで詠んだ詩なんですけどね。

(あなたに)見せたいものだなぁ。
雄島の漁師の袖でさえも、
波しぶきですっかり濡れてしまっているけども、
色変わりまではしていないのに
(涙で濡らした私の袖は色変わりをしてしまっていることよ)。

 

・文法など

初句切れ、四句切れ。

「見せばやな」
 =下二段動詞「見す」+願望の終助詞「ばや」+詠嘆の終助詞「な」
 ⇒見せる+~したい+~だなぁ=「見せたいものだなぁ」
 ×ここが「見せ場やな」という意味ではない。

「雄島」
 宮城県の松島にある島の1つ。

「袖だにも」
 =副助詞「だに」。英語の比較級のthanに似ている。
  程度の軽いものを例に挙げて、程度の重さを強調させる。
  今回の場合だと、「雄島の海人の袖<私の涙で濡れた袖」となる。
  「~でさえも○○なのに、・・・」で訳しておけばOK。

「濡れにぞ濡れし」
 =現代語にもあるように「濡れに濡れた」でOK。
 →「濡れ」+格助詞「に」+係助詞「ぞ」
          +「濡れ」+過去の助動詞「き」連体形
 ⇒「濡れに濡れた、しかし」(←上の「だに」の意味を有効に組み合わせる)

 普通の涙が枯れてしまった後は、血の涙が出るので、
 水で濡れてしまうのではないので袖の色が変わってしまう、ということ。

 さて、伊勢物語 第23段もこれで最後です。

 前回は、女の親が亡くなってしまい、経済的に困ってしまったので、
当てになるような女を高安で作った男。

 しかし、妻の愛情を再確認して、胸キュンになった男。
残された高安の現地妻は、このまま黙っているはずがない。

 さて、この三角関係(男が一方的に悪いが)はどう決着させるのか・・・!?

 

 

 まれまれかの高安に来て見れば、
初めこそ心にくくもつくりけれ、今はうちとけて、手づから飯匙(めしさじ)とりて、
笥籠(けこ)のうつはものに盛りけるを見て、心憂がりて、行かずなりにけり。
さりければ、かの女、大和の方を見やりて、

  君があたり 見つつを居らむ 生駒山
      雲な隠しそ 雨は降るとも

と言ひて見いだすに、からうじて大和人、「来む。」と言へり。
喜びて待つに、たびたび過ぎぬれば、

  君来むと いひし夜ごとに 過ぎぬれば
      頼まぬものの 恋ひつつぞ経る

と言ひけれど、男住まずなりにけり。

 

 

<直訳:ほんのり意訳をプラス>

 たまたま例の高安に来てみると、
男が通い始めた頃は奥ゆかしくもそれらしく装っていたにも関わらず、
今では気を許し、自分でしゃもじを取って、ご飯をお茶碗に盛っているのを見て、
男は残念で情けなく思って、行かなくなってしまった。

そういうわけで,寂しくなった高安の女は,大和(奈良)の方を見やって、

 あなたがいる辺りを見ながら、(待って)いましょう。
 雲よ、あの生駒山を隠してくれませぬな、たとえ雨が降ったとしても。

と詠んで外を眺めていると、やっとこさ大和の国の男が
「来よう(行こう)。」と言ってきた。
女は喜んで待っていても、まったく来ず終いで、むなしく日々が過ぎたので、

 「来よう」と貴方がおっしゃった”夜”が来るたびに(=毎夜)お待ちしますのに、
 あなたはいらっしゃらずにむなしく過ぎてしまうので、
 (来るとは)当てにはしてないものの、恋しく月日を過ごしております。

と詠んだが、男は通ってこなくなってしまった。

 

 

<よりよく鑑賞するための解説>

・まれまれ ― 偶然、たまたま
・笥籠(けこ) ― 食べ物を盛る器

・雲な隠しそ ― 「・・・な~そ」の形で、「・・・よ、~するな」の禁止の意味。

・住む ― 男が女のもとに通って、夫婦生活を営むこと。

 伊勢物語、第23段の前回からの続きです。

 1回目は、田舎に住む男の子と女の子が、幼馴染同士、
お互いにこの人と結婚したいと思っていて、晴れて結ばれました。

 さて、これからこの2人はどうなるのでしょうか?
では、続きをどうぞ。

 

<本文>

 さて、年ごろ 経るほどに、女、親なく、頼りなくなるままに、
「もろともにいふかひなくてあらむやは。」
とて、河内の国、高安の郡に、行き通ふ所いできにけり。

 さりけれど、このもとの女、「あし。」と思へる気色もなくて、
いだしやりければ、男、
「こと心ありてかかるにやあらむ。」
と思ひ疑ひて、前栽の中に隠れゐて、河内へいぬる顔にて見れば、
この女、いとよう化粧じて、うちながめて、

  風吹けば 沖つ白波 たつた山
      夜半にや君が ひとり越ゆらむ

とよみけるを聞きて、限りなくかなしと思ひて、河内へもいかずなりにけり。

 

<直訳:ほんのり意訳もプラス>

 さて、長い年月が経って、女の親が亡くなり、
当てにするところがなくなって、経済的に困ってしまっていたうちに、
「お互いがどうしようもなくなってええもんか、いやアカン(反語)」
と男は考えて、河内の高安へ行き通うところ(=現地妻)ができてしまった。

 そうではあるけれど、このもともとの女は、
「ひどい」と思っている様子もなく、男を行かせてやっているので、
男は、「浮気心があるのだろう(から、このように振舞っているのだろう)」と疑って、
前栽(せんざい:庭の植え込み)に座って隠れ、高安へ行ったフリをして見ていると、
この妻は、大変きれいに化粧をして、物思いに耽りながらふと景色を眺めて、

  風が吹くと沖で白波が立つという竜田山を、
  こんな夜中にあなた様はたった1人で越えているのでしょうか。

と詠んだのを聞いて、この上なく愛しいと思って、現地妻のもとへも行かなくなった。

 

 

<よりよく鑑賞するための解説>

・親なく、たよりなくなる ― 昔は、妻側の親がいろいろと家庭のことをしていたので、
                そのアテにしていた親が亡くなってしまうと、
                経済基盤がなくなることになるので、困窮してしまう。

「もろともにいふかひなくてあらむやは。」
・もろとも(諸共に) ― 2人がともに
・いふかひなし ― 言っても意味が無い、どうしようもない、情けない
・あらむやは ― 動詞「ある」+推量の助動詞「む」+反語の係助詞「やは」
            ⇒「~であろうか、いや、そうではない」
・河内の国、高安の郡 ― 現在の大阪府八尾市。Wikipediaに詳しい。近鉄大阪線高安駅付近

 

・こと心(異心) ― 他の人への想い。浮気心。

 

「風吹けば 沖つ白波 たつた山 夜半にや君が ひとり越ゆらむ」
・風~白波 ― 「たつ(立つ)」にかかる序詞。
・たつた山 ― 「竜田山」と「立つ」の掛詞。

 国語総合の試験監督で問題を見ていると、最後に古文がありました。
そのときの文章が気になったので、頑張って勉強しようと思います。
皆さんも、平安時代の恋愛事情について、体感していただければと思います。

 

 昔、田舎わたらひしける人の子ども、井のもとにいでて遊びけるを、
おとなになりにければ、男も女も恥ぢかはしてありけれど、
男は「この女をこそ得め。」と思ふ。
女は「この男を。」と思ひつつ、親のあはすれども聞かでなむありける。

さて、この隣の男のもとより、かくなむ、

  筒井筒(筒井つの) 井筒にかけし まろがたけ
        
過ぎにけらしな 妹見ざるまに

女、返し、

  くらべこし 振り分け髪も 肩すぎぬ
       君ならずして たれかあぐべき

などと言ひ言ひて、つひに本意のごとくあひにけり。

 

 

<直訳:ちょっとだけわかりやすく意訳>

 昔、ある田舎の子どもたちが、お外にある井戸の周りで遊んでいたんだが、
大人となったので、男も女もお互いに恥ずかしがってはいたんだけれど、
男は「この女と結婚したい」と思っていた。
一方の女は、「この男を(生涯の伴侶としたい)」と思い、
親が他の人と結婚させようとするけれども、聞き入れようとはしなかった。

 さて、隣のこの男から、このような歌が贈られてきた。

 井戸の周りの筒(=落下防止用)と私の背丈を比べていたら、
 いつの間にやら私の背丈の方が高くなってしまったんだなぁ。
 親愛なるあなたを見ていないうちに。
(背丈も大きくなり、大人になったんですよ、というアピール)

 それに対する、女の返歌。

 比べてきた振り分け髪(おかっぱ頭)もすっかり伸びて、肩を越えてしまいました。
 あなたがやらずして、誰が私の髪を上げてくれるのですか?
(私が大人になった儀式を行ってくれるのはあなたしかいませんよ、という返答)

などとお互いに言い合って、結局、2人の本望どおり結婚することとなった。

 

<より鑑賞しやすくするための解説>

・わたらひ ― 生活をすること
・あはすれど(逢はすれど) ― 結婚させようとするけれど

・井筒 ― 円い筒の枠をつけた井戸
・筒井 ― 井戸の円い囲いのこと
・まろがたけ(まろが丈) ― おじゃる丸と同じで、「まろ」=「私」。「私の背丈」の意。
・けらしな ― 過去の助動詞「ける」+推量の助動詞「らし」+終助詞「な」の短縮形。
              ⇒「~したらしいなぁ」、「~だったようだなぁ」
・妹(いも) ― さつまいもとか、兄弟姉妹の妹ではない。
          妹(いも)は、親しい女性を呼ぶときの言葉。

・振り分け髪 ― 子どものころにする髪形。髪を肩先で切り、左右に分けていた。
・(髪を)上げる ― 髪を結うことは、大人になったことの証。女性の成人式みたいなもの。

久方ぶりにコイウタをやってみようと思います。
前回が、第88番歌「難波江の~」でしたので、その続きからです。

 

百首歌の中に忍恋を

玉のをよ たえなばたえね ながらへば
 忍ぶることの 弱りもぞする

                  ――式子内親王 「新古今和歌集」

 

<直訳>
百首詠進したときの中で「忍ぶ恋」について詠んだ歌

私の命よ、絶えてしまうのならば絶えてしまえばいいじゃない!
生き長らえていると、私の恋心を秘めている意思が弱まってしまっては困るから。
そして、秘めた恋心が他の人に知られたくないから。


・文法など
「を(緒)」、「たゆ(絶ゆ)」、「永らふ」、「弱る」は縁語。

「もこそ/もぞ」
係助詞「も」+係助詞「こそ/ぞ」+結びの語(連体形/已然形)で、
”〜したら大変だ”、”〜しては困る”の意味となる。
⇒弱り も ぞ する =「弱ってしまっては大変だ」

 

<意訳>
どうせ生きていたって、この恋なんて叶わないんだから。
だったら、死んだっていいじゃない!
あの人と一緒じゃないと生きてても意味なんかないんだから。
でも、結局はあの人とは結ばれない、叶わぬ恋だったのかなぁ。

べっ、別にアンタのことが好きって言ってるわけじゃないんだからね!
か、勘違いしないでよ。アンタなんて大っ嫌いなんだからね。

瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の
 われても末に あはむとぞ思ふ
              ――崇徳院  「詞花和歌集」


<直訳>
浅瀬の流れが速いので、岩にせき止められる急流は流れが分かれても、
下流ではいずれ1つになるように、私たちの仲も裂かれて別れても、
将来には一緒になろうと思うのです。

・文法など
「瀬を〜滝川の」は「われても〜あはむ」へかかる序詞。
「瀬」・「塞く(せく)」・「滝川」は縁語。

「われて」は、「水が割れて」と「仲がわれて」の掛詞。
「あふ」は、「流れが合う」と「二人が逢う」の掛詞。


「〜を+(形容詞の語幹)+み」
⇒〜が・・・(形容詞)なので という意味になる。

「せかるる」
→「せく(塞く)」の未然形+受身の助動詞「る」の連体形
⇒せき止められる

「滝川」はクリステルとかではなく、”急流”の意味。


作者、崇徳院(第75代天皇)
後白河天皇(第77代)と世継ぎの問題で「保元の乱」が起こる。
権中納言俊忠家に恋の十首歌よみ侍ける時、
祈れども逢はざる恋といへる心をよめる

憂かりける 人を初瀬の 山おろしよ
 はげしかれとは 祈らぬものを

             ――源俊頼朝臣 「千載和歌集」


<直訳>
藤原俊忠の家において、恋の歌を10首詠みましたときに、
「祈っても逢えない恋」というお題で詠んだ歌

私に対してつれなかった人を、初瀬の山おろしよ。
観音様に(相手が私になびきますようにと祈ったけれど、)
辛さが一層激しくなれとは祈らなかったのになぁ。


・文法など
「山おろし」と「はげし」、「初瀬」と「祈る」はそれぞれ縁語。

ちなみに「山おろし」とは、局地風の一種で山から吹き降ろす風。
漢字で書くと、「下」の下に「風」で「颪」。
いかにも山から吹き降ろしてきそうな感じですね。

「ものを」は詠嘆の終助詞(〜なのになぁ)。

「初瀬」
奈良県桜井市初瀬のこと。
ここに観音信仰とあじさいで有名な長谷寺がある。

hは中学のときに、長谷寺へ友人とあじさいを見に行って、
そのあじさいよりも絵を描いていたおばさんに怒られた思い出がある。
それほど騒いだ記憶はないのだがなぁ。

アクセスは、近鉄大阪線桜井駅から名張・青山町方面へ2駅。
大阪(上本町、鶴橋、布施など。難波からは鶴橋で乗り換え)からは、
急行(または快速急行)で河内国分(快速急行は通過)、
大和八木あるいは桜井まで行き、
榛原か名張行きの準急に乗り換えるとよい(15〜20分に1本の間隔かな)。
祭事の時期は、急行が臨時停車することもある。
駅からは徒歩で少し遠い(15分くらい)が、商店が軒を並べているので楽しい。

入場料必要。