2017年09月15日 (金)
慣れない近道があっても、多少の回り道でも本道を行く。
そんな言葉もあるが、自分の人生において、
自分で遠回りしているような気がしてならない。
その遠回りが何かに結び付けばよいが、
どの道を選んでも、道草を食うだけならよいが、
少しずつ時間や何かを失っていく気がしてならず、
結局は真っ直ぐ目的地を目指した方が早く着きそうだった。
どこであったか、麻雀をしているとき、
「なぜ君は(和了りから)遠回りして打つんだ?」と言われた。
自分では気付かない。確かに流れも戦略もなく手なり。
といっても、何が最も和了がりの形に近いか、くらいは考える。
しかし、それが麻雀の基本形のピンヅモや断ヤオなのに、
違う手(とりあえずの聴牌・立直、役牌等)に向かう。
そのため、聴牌に近づくころにはもう終盤。
捨てた牌を見れば、ピンヅモにもできた「かもしれない」。
その可能性に、局が終わるまで一切気付かないもの。
それではツモ運が良い日でも勝てるはずもない。
麻雀の話から、規模を大きくすると、
人生ってヤツは、人によっては遠回りした方が損なのだということ。
人生に基本形もクソもないけど、猪突猛進もアリってこと。
確かに道がいかにぐにゃっと曲がっていても、それをこなし、
その場で得られるものを得て目標にたどり着く猛者もいる
(それが「普通」の人もいるが、私には猛者なのだ)。
一方、自分はそんな器用な生き方ができただろうか。
それは、麻雀の進め方が、自分の生き方と反映しているのでは。
そんな言葉もあるが、自分の人生において、
自分で遠回りしているような気がしてならない。
その遠回りが何かに結び付けばよいが、
どの道を選んでも、道草を食うだけならよいが、
少しずつ時間や何かを失っていく気がしてならず、
結局は真っ直ぐ目的地を目指した方が早く着きそうだった。
どこであったか、麻雀をしているとき、
「なぜ君は(和了りから)遠回りして打つんだ?」と言われた。
自分では気付かない。確かに流れも戦略もなく手なり。
といっても、何が最も和了がりの形に近いか、くらいは考える。
しかし、それが麻雀の基本形のピンヅモや断ヤオなのに、
違う手(とりあえずの聴牌・立直、役牌等)に向かう。
そのため、聴牌に近づくころにはもう終盤。
捨てた牌を見れば、ピンヅモにもできた「かもしれない」。
その可能性に、局が終わるまで一切気付かないもの。
それではツモ運が良い日でも勝てるはずもない。
麻雀の話から、規模を大きくすると、
人生ってヤツは、人によっては遠回りした方が損なのだということ。
人生に基本形もクソもないけど、猪突猛進もアリってこと。
確かに道がいかにぐにゃっと曲がっていても、それをこなし、
その場で得られるものを得て目標にたどり着く猛者もいる
(それが「普通」の人もいるが、私には猛者なのだ)。
一方、自分はそんな器用な生き方ができただろうか。
それは、麻雀の進め方が、自分の生き方と反映しているのでは。
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